時間は2時間程前に遡る。リビングのソファベッドでぼんやりと天井を見ていた朱莉は隣の部屋に寝ている明日香のうめき声に気が付いた。「ううう……お、お腹が……!」それはとても苦し気なうめき声だった。「明日香さん!?」飛び起きて急いで寝室へ行くと、明日香は真っ青な顔で額に汗を浮かべてお腹を押さえている。「う……い、痛い……く、苦しい……」この苦しみ様は尋常ではない。朱莉は急いで電話をかけ、救急車を呼んだのだった――****――午前9時名古屋から始発で新幹線に乗って、翔と琢磨は明日香の入院している病院へと駆けつけてきた。そこには病室の待合室の長椅子に座っていた朱莉が待っていた。「朱莉さん! 明日香は……明日香の様子は!?」翔は朱莉を見ると両肩を掴んで詰め寄ってきた。「あ、あの明日香さんは……」「おい! 落ち着け翔!」そこを止めたのは琢磨だった。「あ……」そこで翔は自分が思っていた以上に取り乱している事に気付き、溜息をついて力なく長椅子に座り込む。そこへ主治医の男性医師が現れた。「ご家族の方ですね?」翔の顔を見ると声をかけてきた。「はい。それで……彼女の具合は……?」「ええ、今から説明致します。どうぞ中へお入り下さい」医者に促され、翔は力なく立ち上がると病室へと入って行き、待合室には朱莉と琢磨がされた。「……」朱莉は青ざめた表情で立っている。そんな様子の見かねて琢磨は声をかけた。「朱莉さん……。少し座ってお話しませんか?」「はい……」項垂れたまま、朱莉は椅子に座ると琢磨も隣に座った。「朱莉さん。明日香さんは妊娠していたんですね。知っていたんですか?」琢磨は朱莉に質問した。「はい。知っていました。……でも私も聞かされたのは昨夜はじめてだったんです。明日香さんの自宅に招かれて、そこで3カ月だって初めて聞かされて……母子手帳を見せていただいたんです」「そうですか……」琢磨は神妙な面持ちで朱莉の話を聞いていた。朱莉が翔の事を好きなのはとっくに気付いていた。それなのに自分の好きな男性の子供を身籠ったと明日香に聞かされた時、朱莉はどれほどショックだっただろう?その時の気持ちを考えると、今目の前に青ざめた顔で項垂れている朱莉が憐れでならなかった。「私はリビングで眠っていて、明日香さんは隣の寝室で眠っていたんです。それで夜
「朱莉さん。君に話があるんだ。病院の外で話さないか?」「は、はい」朱莉は首を傾げながらも返事をした。しかし琢磨は翔の切羽詰まった様子が気になり、声をかけた。「当然、俺も話に混ぜて貰うからな?」「……好きにしろ」そして翔を先頭に、朱莉と琢磨は病室の中庭へと向かった。中庭に着き、ベンチに座ると翔は朱莉を睨み付けるような目で問い詰めてきた。「朱莉さん。昨日は明日香とずっと一緒にいたのに……何故君は明日香の異変に気付かなかったんだ?」「え……?」まるで責め立てるような言い方に朱莉の肩がビクリと跳ね、琢磨は驚いた。「翔! お前……何言ってるんだ!?」しかし琢磨の声が耳に入らないのか、朱莉を責めるのをやめない。「朱莉さん……君は明日香と同じ部屋にいたんだろう? しかも隣の部屋で寝ていれば苦しがる明日香の異変にすぐ気が付いたはずだ。……違うか?」「あ、あの……わ、私はあの時はまだ眠っていなかったんです。だから明日香さんの苦しんでいる声にすぐ気が付いて……それで……」「それを俺に信じろと言うのか? もしかして君は苦しがっている明日香を放置して、お腹の子供を流産させようと思っていたんじゃないのか? 明日香は君に子供を育てさせようとしていたからな」翔は眼に涙を浮かべながら朱莉を詰る。「! そ、そんな……!!」朱莉の口から悲痛な声が洩れる。「翔! 本気でそんな事を言ってるのか!? お前気でもおかしくなったんじゃないのか!? 大体朱莉さんにそんな真似出来るはずが無いだろう!?」琢磨は翔の胸倉を掴むと怒鳴りつけた。「うるさい! 俺と……明日香のことなんか何も……お前達2人には分からないくせに!」翔はまるで血を吐くように叫び、再び朱莉を睨みつける。「今回……明日香に命の危険は無かったが、もう二度と明日香を見捨てるような真似はしないでくれ。最低でも後5年は君と俺は契約婚という雇用関係を結んでいるんだから……。分かったか?」そしてフイと朱莉から視線を逸らせた。「悪いが今日はもう帰ってくれ。今はこれ以上君の顔を見ていたくないんだ」「!」朱莉はその言葉に身体を震わせ……俯いた。「わ……分かりました。ほ、本当に申し訳……ございません……でした……」最後の方は今にも消え入りそうな声だった。「翔! お前っていう奴は……!」「うるさい、琢磨。今日は
明日香は病室で今も眠っている。そんな明日香を翔は心配そうに見守っていた。そして先程、朱莉に投げつけた言葉を思い返していた。(少し言い過ぎてしまったか……? だが朱莉さんは明日香に色々嫌な目に遭わされてきていた。だから明日香の体調の悪さをわざと見過ごして……)その時、明日香が突然寝言を言い始めた。「いや……お母さん……置いて行かないで……。いい子になるから……私を……捨てないで……」明日香の目から涙が頬を伝って流れていく。「明日香……あの時の夢をみているのか……?」翔は明日香の手をギュッと握りしめると、不意に明日香が目を開けた。「翔…… ?ここはどこ……?」「明日香、良かった! 目が覚めたんだな!?」翔は半分泣いたような笑みを浮かべると明日香の顔を覗き込んだ。「あ……そうだったわ……。私は夜突然お腹が痛くなって……。それで……お腹の子供は……?」明日香はまだ夢の中なのか、ぼんやりした声で天井を見つめた。「ああ……。今回は……駄目だったよ……」「そう……。やっぱり……」明日香の言葉が翔は引っ掛かった。「やっぱり……? どういう事だ?」「医者に言われたのよ……。エコーで胎のうって言うのが確認できなかったから……もしかしたら子宮外妊娠かもしれないって……」「何だって? その話……今初めて聞いたぞ?」先程の医者の説明でも流産としか翔は聞かされていなかったのだ。「今の話……朱莉さんも知らなかったのか?」「ええ。だって……言いたくなかったのよ……」明日香は目を閉じた。確かにプライドの高い明日香のことだ。子供が出来たと話しても、産むことが出来ないかも知れないなど言えるはずも無いだろう。「明日香……辛かっただろう? すまなかった。具合が悪かったのに側にいてやれなくて……」翔は明日香の手を強く握りしめると明日香がふいに尋ねた。「朱莉さんは……何処?」「朱莉さんならもう帰ったぞ? 一体どうしたんだ? お前が朱莉さんの名前を口にするなんて」「そう……帰ったの。折角お礼を言おうと思っていたのに」明日香の呟きに翔は耳を疑った。「明日香……今、何て言ったんだ? 朱莉さんに……お礼だって……?」「ええ……。だって彼女は具合が悪くなってすぐに救急車を呼んでくれたのよ。それに救急車が来る間に私の母子手帳を探し出してくれたし……運ばれている最
真っ暗な部屋の中――朱莉は電気もつけずに部屋の隅に座り込んでいた。翔に冷たい言葉を投げつけられた後、朱莉は何処をどうやって自宅に帰って来たのか思い出せなかった。気付けば部屋の隅に座り込んでおり……部屋の中は闇に包まれていた。ぼんやりとした頭の中で朱莉は思った。今は何時なんだろう? 毎日欠かさず通っていた母の面会も今日は行く事が出来なかった。……きっと母は心配しているだろう……。朱莉の手には翔との連絡用スマホが握り締められていた。何処かで朱莉は期待していたのだ。ひょとしたら翔から連絡が入ってくるのでは無いだろうかと……。誤解してすまなかったと詫びの連絡が来るのでは無いかと心の何処かで密かに期待していたのだ。けれど何時間たっても朱莉のスマホには翔からの連絡は入って来なかった。代わりに朱莉の個人的に所有するスマホには何件も着信が入っていたが……朱莉はそのスマホを確認する気力も持てないでいた。突如、壁掛け時計が夜の9時を示す音を鳴らした。「あ……もう、こんな時間だったんだ」しかし、今の朱莉はなにもする気力が湧かなかった。そして今もこうしてかかってくるはずも無い翔からの電話を待ち望む自分がいる。朱莉の目に涙が浮かんできた。(馬鹿だ……私。あれ程翔先輩に冷たい言葉を投げつけられたのに……顔を見たくないって言われたのに……今もこうして翔先輩からの連絡を待っているなんて……)今迄我慢していた涙がとうとう堰を切って溢れ出してきた。朱莉は自分の膝に頭を埋め、声を殺して泣き続けた。本当はこんなことをしている場合では無いのに。3年間で高校を卒業する為に勉強だってしないといけないし、レポートも書かなければならない。それに明日香には英会話の勉強もするように以前言われたことがあったので、並行して朱莉は英会話の勉強も行っていた。やらなければならないことは沢山あるのに……今は何も手につかなかった。(マロン……こんな時、マロンが側にいてくれたら……)あの温かい身体を抱きしめて……自分の悲しい気持ちを、寂しい気持ちを慰めて貰うことが出来たのに……。(誰か、誰でもいいから私を助けて……。お母さん……いつになったら一緒に暮らせるの……?) その時――玄関のインターホンが何度も鳴り響く音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう……? 朱莉は立ち上がる気力すら無かった。それで
「朱莉さん……少しは落ち着きましたか?」玄関で琢磨は朱莉を見下ろし、尋ねた。「は、はい……申し訳ございませんでした。つい取り乱して……あ、あんな風に泣いて……。お恥ずかしい限りです……」俯く朱莉。いい大人があんな風に子供の様に泣きじゃくる姿を琢磨に見せてしまった事が恥ずかしくて堪らなかった。「そうやっていつも1人で泣いていたんですか? 辛い時や悲しい時、いつも……たった1人で……」琢磨の何処か苦し気な声に朱莉は顔を上げた。その顔は悲しみ満ちていた。「九条さん?」すると琢磨は突然頭を下げ、ポツリポツリと語りだした。「朱莉さん。私は副社長の部下であり、そして親友でもあります。親友は……禁断の恋と、会長に見合いを強いられ、苦しんでいました。そしてついに世間を……会長の目を胡麻化す為に『契約婚』という手段を選んだんです。そして私も親友と会社の為に面接と言う手段を取り、募集し……選ばれてしまったのが朱莉さん。貴女だったんです。書類選考をしたのは、他でも無い……この私です」「……」朱莉は黙って話を聞いていた。「私も朱莉さんをこんな辛い立場に追いやった人間の1人です。いや……最初に朱莉さんを副社長に紹介したのが私だから一番質が悪い男です。だからこそ、私は貴女に罪滅ぼしがしたい」「罪滅ぼし……?」「はい、もし朱莉さんがペットを飼いたいと言うなら私が貴女の代わりに飼って育てます。そして休みの日は貴女にペットを託します。もし、風邪を引いたり、体調を崩したりした場合は時間の許す限り、貴女の元へ駆けつけます。貴女が翔と契約婚を続けるまでは……出来るだけ朱莉さんの力になります。いや……そうさせて下さい」琢磨は頭を下げた。その身体は震えている。「な、何を言ってるんですか九条さん! そんなこと九条さんにさせられるわけないじゃありませんか!九条さんは翔さんの重責な秘書ですよ? 私のことなら大丈夫です。高校を卒業してからはずっと1人で生きて来たんです。思った以上に強いんですよ? でも今回のことはちょっと……堪えてしまいましたど……」「それは副社長の事が好きだから……ですよね?」琢磨の顔は先ほどよりも悲し気に見えた。「!ど、どうして……?」そこから先は朱莉は言葉にならなかった。「朱莉さんを見ていればそれ位分かりますよ。でも……朱莉さん。悪いことは言いません。翔
億ションを足早に出ると、琢磨は翔に電話をかけた。『もしもし……』5回目のコールで翔が電話に応じた。「おい、翔。お前まだ病院にいるんだよな?」『あ、ああ。医者の話では今日は全身麻酔で子宮の中を綺麗にする処置をしたそうだから、付き添いをするように言われているんだ。お前は今何処にいるんだ? ひょっとして外にいるのか?』「ああ。そうだ。気の毒な朱莉さんの所へ行っていた所だ。翔、人のことを言えないが……お前は最低な男だよ。明日香ちゃんに対する優しさをほんの少しでも朱莉さんに分けてやろうとは思えないのか? いいか? 朱莉さんを傷付けたのはお前だけど……彼女を慰められるのも……お前しかいないんだよ!」歩きながら琢磨は吐き捨てるように言った。『琢磨。お前……』「いいか? 朱莉さんは今回の事で契約婚を打ち切られるのじゃ無いかって心配していたぞ? 彼女はまだお前との契約婚を望んでいる。もしお前が朱莉さんとの契約婚を打ち切ろうと考えているなら俺が許さない。絶対に阻止するからな!?」すると電話越しから狼狽えた声が聞こえた。『ま、まさかそんな事考えるはず無いだろう? 俺は今……すごく後悔してる。つい、頭に血が上ってあんな酷いことを朱莉さんに言ってしまうなんて……。もう何回も俺は朱莉さんを傷付けてしまった。我ながら最低な男だと思っている。だけど……明日香が絡んでくると俺は……!』「それはお前が明日香ちゃんに負い目があるからだろう? お前……本当に明日香ちゃんのことが好きなのか? 本当は罪滅ぼしの為に愛そうとしているだけなんじゃないのか?」『! ま、まさか……俺は本当に明日香の事を……』しかし、そこまでで翔は言い淀んでしまった。「まあ、別に2人のことは俺には関係ないけどな。ただ朱莉さんのことなら今後俺は口を出させて貰うぞ。俺にはお前と言う男を紹介してしまった罪があるからな」『琢磨……』受話器越しの翔からため息交じりの声が聞こえた。「何だよ? 何か言い分があるなら聞くぞ?」『いや、特に無いよ。とにかく朱莉さんにはお前から伝えておいてくれないか? 契約婚は続けさせて欲しっいって』「なら、お前からメッセージを送れ」琢磨はぶっきらぼうに言った。『だが、俺から連絡をすると……怖がられるだろう?』「お前……! ふざけるなよ! 彼女……朱莉さんはずっとお前との連
明日香が流産をしてから、早いもので半月が過ぎ、季節は3月になっていた。あの夜、琢磨に説得された翔は、朱莉に詫びのメッセージを送った。自分勝手な思い込みで心無い言葉を朱莉にぶつけてしまった非礼を詫び、明日香が朱莉に感謝していた旨を綴った。そしてこれからも契約婚の関係を続けて貰いたいと書いて朱莉にメッセージを送ったのだった。勿論朱莉からの返信は快諾の意を表す内容であったのは言うまでも無い。翔は前回の非礼の意味も兼ねて、今月からは今迄月々手当として朱莉に振込していた金額を増額させ、朱莉は毎月150万円もの金額を貰うことになったのだった——****—―日曜日 朱莉は琢磨と一緒に買い物に来ていた。「何だか申し訳ないです。翔さんにこんなに沢山お金を振り込んでいただくなんて……」琢磨と並んで歩きながら朱莉は口にするも、琢磨はにこやかに答えた。「いえ、気にしないで下さい。そのお金は明日香さんを助けてくれた副社長のお礼の意が込められているのですから」「明日香さんの……」あの日、明日香が救急車で運ばれた夜のこと。明日香の母子手帳を朱莉が必死に探し出し、救急車の中で激しい腹痛で苦しんでいる明日香の手をギュっと握りしめて励ましの言葉をかけ続けた朱莉。明日香の中で感謝の気持ちが芽生えてきたのか、朱莉に対しての態度が軟化してきたのだ。そして犬よりも小さめで静かな小動物ならあの部屋で別に飼育しても良いと明日香の許可を貰えたのである。そこで朱莉はウサギを飼うことに決めたのだが……。「あの……九条さん。折角のお休みのところ、わざわざペットショップについて来てもらわなくても、私なら一人で大丈夫ですよ?」隣りを歩く琢磨を見上げた。「いえ、いいんですよ。ペットを飼うには色々荷物も必要になりますからね。荷物持ち位させて下さい」しかし朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。琢磨は翔の第一秘書と言うだけあり、日々多忙な生活を続けている。それなのに貴重な休みを自分の買い物につき合わせることに肩身が狭く感じてしまうのであった。今回、何故琢磨が朱莉の買い物に付き合う流れになったかと言うと、翔から琢磨にペット飼育に関する明日香のメッセージを朱莉に伝えて欲しいと頼まれたのだ。琢磨は朱莉に翔からの伝言を伝えたると朱莉が遠慮がちにそれならウサギを飼ってみたいと申し出てきた。そこで今
琢磨がキャリーバックの中に入れたウサギを抱え、2人で店を出ると朱莉はマロンのことを考えた。(マロンを手放してまだ一月ほどしか経っていないのに……私って薄情な人間なのかな……?)そんな朱莉の横顔を琢磨はじっと見ていたが、明るい声で話しかけてきた。「朱莉さん。このウサギ、紺色をしているからコンて名前はどうかな? あ、でもそれじゃまるで狐みたいだな? 朱莉さんならどんな名前にする? 早く決めないとコンて名前で呼んじゃうぞ?」「ええ? い、今決めるんですか……? う~ん、どうしよう……。あ、それじゃネイビーってどうですか?」「え……ネイビー……?」琢磨は一瞬目を見開き……次に声を上げて笑い出した。「コンだからネイビー? ハハハ……これは面白いな。うん、ネイビーか……素敵な名前じゃ無いかな? それじゃ、今日からこのウサギの名前はネイビーだ」そんな琢磨を見て朱莉は思った。(やっぱり九条さんは相当私に気を遣ってくれているんだ。私を契約婚の相手に選んだから? そんなに気にする事は無いのに。だって九条さんのおかげでもう二度と会う事は無いだろうって諦めていた翔先輩に再会出来たのだから……)朱莉の考えではむしろ琢磨には感謝したい位なのだが、それを伝えれば益々恐縮してしまうのでは無いかと思うと言い出せなかった。その後も2人は他愛無い会話を続けながら、帰路についた——**** 2人で億ションに辿り着いた時、朱莉はドックランで遊ばせている人物を見つけた。 (あ……あの人は……!)すると、相手も朱莉の存在に気が付いたのか振り向いた。「きょ、京極さん……」「あ……朱莉さんじゃないですか! ずっと姿を見かけなかったので心配していたんですよ!」その時、京極は朱莉の隣に立っていた琢磨を見た。「……」琢磨は何故か先程とは打って変わって、険しい顔で京極を見つめている。(え? 九条さん……? どうしたのかな?)朱莉は不思議に思い琢磨の顔を見上げた。一方の京極も何故か挑戦的な目で琢磨を見つめている。先に口火を切ったのは京極の方からだった。「こんにちは、初めまして。貴方ですか? 朱莉さんの夫で、彼女に折角飼った犬を手放す様に言ったのは。貴方は夫のくせに妻を平気で悲しませるんですね?」京極は喧嘩腰に琢磨に話しかけてきた。「夫?」琢磨が小さく口の中で呟くのを朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう